あの民謡を題材にしたそうです。
どのような町なのでしょうか。
赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷からなるので五箇谷間、これが転じ五箇山の地名となった。この名称が、文献に出てくるのはのは約500年前、本願寺住職第9世光兼実如上人の文書が初めである。これ以前、荘園時代は坂本保・坂南保・坂上保・坂下保・坂北保の5つの領に区別し「五箇荘」とも呼んだ。
歴史
平家の落人が住み着いたと伝えられている。1183年、富山県と石川県の県境倶利伽羅峠で、木曽義仲(源義仲)と平維盛(平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)。木曽義仲は、この時火牛の戦法で平家に大勝した。その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされるが、物的証拠はないが一部五箇山の民家の家紋として残っているとされている。
戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦(1570年?1580年)の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われた。また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来からは、古民家の囲炉裏下には自然と塩硝は製造されていたのだが、五箇山では、自然の草(ヨモギ・しし独活・麻殻・稗殻など)と蚕の糞などで製造する「培養法」を使ってより多くの塩硝を製造した。16世紀後半には前田家が加賀一帯を統治し、一向一揆が沈静化したころより加賀藩に召し上げとして買い付けられる。17世紀前半である。加賀藩は、外様大名として100万石の経済力をもち江戸幕府の8分の1の力を持っていたので御取潰しの危機にあったが、裏では五箇山での火薬の原料を調達していたのである。この塩硝も、日本が鎖国を解いてから南米チリからの硝石輸入によって廃れてしまう。 江戸時代には、加賀藩の流刑地とされ、加賀騒動の大槻伝蔵もこの地へ流された。
地域の特色
この地域は世界的にみても有数の豪雪地帯であり、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれた。現在も平村の相倉地区や上平村の菅沼地区には合掌造りの集落が残っており、隣接する岐阜県白川村の白川郷とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産に登録されている。
また、民謡「こきりこ節」の地としても知られる。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)
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